六所神社下宮 
   ろくしょじんじゃげぐう       
〒444-2201
愛知県豊田市坂上町字地蔵堂23
 
御由緒書

 

 
御由緒・御祭神   

御由緒
《松平(徳川)氏の創建》
社伝によれば、永和3年(1377)松平(徳川)氏の始祖松平太郎左衛門親氏が、吉木山(現在の六所山)の山頂に陸奥国一宮鹽竈(しおがま)六所明神を勧請し、 松平氏の氏神として、奉祀したことに創まると伝えられています。
《隠居神様》
往古は、吉木山そのものを神体山とし、大山祇神を祀り、産土神として奉拝していましたが、客人神である鹽竈六所明神にその社地を譲り、 同じ山頂の東北にある峰に遷り、蜂ヶ峰神社となりました。里人たちが「隠居神様」と呼んでいるのは、この事情を物語っています。
《六所神社の再建奉加帳》
大永7年(1527)12月野火により社殿が全焼しました。この社殿再建のために、松平宗家5代長親(道閲)は嫡子6代信忠と共に、 「当社大明神は、当国守護の霊廟、郡村加護の明神なり、就中(なかんずく)、松平一等の氏神、先祖崇敬の霊社なり・・・」と、 六所神社造営奉加帳(豊田市指定文化財)を松平一門宛に出しています。
《徳川家康生誕・岡崎城主》
徳川家康が天文11年(1542)12月、岡崎城にて生誕のとき、当六所神社に礼拝がなされたといいます。 家康が岡崎城主となった、永禄年間(1558〜1569)岡崎城に近い高宮村(現在の岡崎市明大寺町)の六所神社へ、 当社の御祭神6柱の内、3柱の神が勧請遷座されました。文化年間「松平家文書」の中に、「六所神社は永禄年中に、 高宮村の六所神社へ衣冠束帯(いかんそくたい)の神像3体、地蔵尊3体を遷御した」と記されております。
《徳川家康初穂料を奉献》
慶長7年(1602)家康は、高月院の祖廟参詣の節に、当社へ20石の初穂料を献じています。
《県社に昇格》
明治6年(1873)、六所明神を「六所神社」と改称し、社格を郷社に列せられ、大正11年(1922)9月26日、県社に列せられました。
◆六所山・鳳来寺山・猿投山と共に三河三霊山の一つと言われ、海抜611mの山頂に六所神社の上宮があります。その山麗の西側に下宮があり、 道路を挟んだ境内には、豊田市指定文化財「六所神社舞台」があります。この舞台は、明治5年(1872)に建てられ、 明治中期以前の二重仕掛けの構造をよくとどめています。二重仕掛けとは、梁の一部がきれていて、舞台の一部が登場者を載せて上下するものです。 舞台の用材には六所山産の杉、桧、栗、モミなどの大木を使用しています。山からの搬出は、近隣の氏子が多数出て、岩角に突き当たって動かなくなると、 岩を削っておろしたといわれております。また、舞台の前の芝も当時そのままの芝居見物用のものです。

御由緒2
松平親氏公が永和3年8月19日の勧請にして家康公より高20石給はる 大給縫殿頭より祭資料として玄米2石4斗を明治3年迄受く大正11年9月26日縣社に昇格せらる。
『愛知県神社要覧』(愛知県神職会 昭和11(1936)年発行)より抜粋


御祭神
《主》猿田彦命,事勝国勝長狭神,岐神,《配》日本武尊



現地調査報告   



現地調査日 平成 年 月 日
平成 年 月 日作成 皇學館大学神道学科

公式HP  
  
  
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