由緒 | 山口県防府市周防国総社 佐波神社(元金切宮)由来概略 周防国総社宮は第十四代仲哀天皇の御代筑紫の熊襲反して貢奉らず八年春正月天皇自ら熊襲を征めんとして筑紫に行幸の時に岡の縣主祖熊鰐此由を聞きて当国佐波浦(今の惣社町)に参迎して帰順の印に参種の宝物又魚塩地を献る。是を以て天皇謂わく是れ賊を平定の吉祥なりと此所に天照皇大神を主神とし素盞鳴尊、三穂津姫命、級長津彦命、級長津姫命、倉稲魂命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、大巳貴命、事代主命、健御名方命、武甕槌命、徑津主命の十四柱の神を招請し戦勝を祈り給いて後筑紫に到り戦を議り給いし時に神教で曰く西方に国あり新羅と謂う熊襲の反逆は之が力を頼みてなり。よく神を敬祭し、先づ其国を討伐し給わば、刄に血ぬらずして、其国服すべしと、しかるに天皇俄に病に罹らせ給ひ、中道にして、崩御し給ひし故皇后齊戒再び其誨ひ給ひし神等を知らむと神託を請ひ給ひしかば、先の日、当所にて天皇の祭り給ひし神等なり、故神託のごとく祭り給いて、新羅征討に進発し給ひしかば、果して彼れは一矢を交えず、素徂面、縛諸降高麗百済亦來降於是海路京師に凱旋し給ふ時皇后謂わく戦勝を得るは向者天皇祭る所の諸神の威霊に藉すると、船を佐波浦(今の惣社町)に泊し社殿を建て、幣帛を奉じ、皇国鎮定の神と崇を給へり、爾後三韓は西方金位なるを以て、西を切り平くるの意に由て、金切宮と稱せりと、昔国司其任国に下りては、必先ず部内の官社を巡拝するを恒例とする、故に平時は国府に近き社に於て之を合祀す、当社即ち是なり、是れ郷名総社の由で来る所以なり、現に社地は国の府中に在りて往昔国司国内の諸神を総て祭祀せし国衙の斎場、国の総社にして、往古は神領も多く有せしを中古乱世の為めに滅亡し、古証文等も紛失に及び、或は文明年間火災の為め焼失し、委細不詳なれども八十二代後鳥羽天皇の御代建久年間に於て、当国の国司職、俊乗房重源再修営をなし、崇敬怠りなく、明治の初年に至る迄毎年東大寺より神供米を奉り旦つ毎祭特に75膳を献進し來たるを例とし、年々不絶献膳の古式を行ふ、如此国司国内の諸神を総て祭祀せし国衙の斎場なるを以て社殿工作物其他の器物等に、菊の御紋章現存し、境内には数多の老松巍巍として字を総社と唱へ、東南隣地は字を国衙と云ひ、神社を去る事5丁の地に国司の官舎、国廰の位置旧跡及び該当石碑も現在して、総社国廰の竝列せし事明白にして、国内遠近の里々より、総社詣でと唱へ平素当社に参拝するもの多く、殊に旧藩主並に領主等の崇敬も厚かりし古社旧蹟由緒正確なる神社なり。明治40年6月村社濱宮神社・同八幡宮・同日吉神社の三村社を合併し同時に神社を佐波神社と改称する。大正11年縣社に列せられた。一、祭神 天照皇大神、素盞鳴尊、三穂津姫命、級長津彦命、級長津姫命、倉稲魂命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、大巳貴命、事代主命、健御名方命、武甕槌命、徑津主命、田心姫命、市杵島主命、湍津姫命、豊玉彦命、保食命、水分神、大山昨神、大巳貴命、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、兒屋根命、比賣神 一、古石鳥居の文字 左柱に 総社金切大明神宮華表 国家安全五殻成就 右柱に 夫斯社者神功皇后異域退治之後 朝之時天皇勅命 今度集會之諸神一社合祀総社 本朝治平鎮守也 |
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