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神社検索(奈良)

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基本システム制作:皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究部会
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部会長:現代日本社会学部教授 新田均  顧問:落合直人
問合せ先: 神社史研究会 副会長:落合直人

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神社ID/コード58570 画像収集中
神社名/通称櫻木神社櫻木さん
(ふりがな)さくらぎじんじゃさくらぎさん
郵便番号639-3442鎮座地奈良県吉野郡吉野町喜佐谷423
氏子地域
電話番号FAX携帯電話
主な祭典祭典日
特殊神事
お知らせ
旧社格式内社御朱印
祈祷出張祭神葬祭
結婚式宝物館その他
宮司名(本務/兼務)連絡先
主祭神《主》大己貴命、少彦名命、天武天皇
フリガナ
御神徳
由緒孝徳天皇の大化年中社殿 本殿は向千鳥向拝極彩色流造檜皮葺で、元禄15年の造営、拝殿、神饌殿は昭和26年に新改築したものである。由緒沿革 社伝に人皇第三十六代孝徳天皇の大化年中、この地方に悪病が非常な勢いで流行した時、尊とい神様が大きな象に乗って天下られ「吾れはこれ悪疫修治の神なり吾れを念ずれば如何なる難病も必らず治癒すべし」とお告げがあったので、里人恐れ畏こみ此の神を鎮め祀ったとある。この神こそ我国、医薬の祖神といわれる、大己貴命、少彦名命の二神であられたわけである。(喜佐谷という地名も明治初年まで象谷と書いてきたのはこの為です)その後第四十代天武天皇様が大海人皇子と仰せられた頃、あの壬申の乱で大友皇子に攻められたとき、吉野離宮のあった宮滝からこの象の小川の奥へと追いつめられ、進退きわまった時傍らに大きな桜の木があったので、突差のひまにその陰に御身をひそめ、危うく難を免かれ給うて武運俄かに興り、遂に大友軍を各地に破り明日香の浄御原の宮で天皇の御位に即かれ給うたのである。その後吉野離宮に幸せられここに玉歩を御運びになり、神恩報賽の御親祭遊ばされ始めて、桜木の宮と仰せ出されて幾度も御幸あらせられたので、天皇様が崩御された後も里人等はその御高徳を仰ぎまつり御ゆかりの深い桜木宮へ合せ祀り、年々のお祭りを欠かさなかった。と古記に詳しく書き残してある。昭和9年4月10日奈良県知事児玉政介より、奈良県告示第153号を以て神饌幣帛料を供進し得へき神社に指定せられ、次いで昭和15年には指定郷社昇格の請願をしていたが、大東亜戦争の激化に依り資材不足等の為遂に実現をみず終戦を迎え、昭和24年の宗教法人令、昭和27年の宗教法人法に依る宗教法人桜木神社として神社本庁に包括され現在に至った。境内末社 稲荷神社(祭神大宇迦能売神)弘化4年伏見稲荷より勧請、大山祇神社(祭神大山祇神)昭和7年小字茶屋ノ本より遷座 境内地 実測1352坪6合6勺、杉、桧、椎、樫の古木鬱蒼として茂り中にも神木と言われる老杉は、樹令500年をこえ回尺2丈3尺、天空に聳えあたりを圧している。皇室、徳川将軍家、紀伊藩主等の崇敬人皇第七十三代堀河天皇康和四年神殿の造営を仰せ出されている。吉野朝廷の尊貴な高官が度々社参祈願している。歴代の徳川将軍家は毎年武運長久祈願を命ぜられ、その都度お守り、お礼を献上し明治維新まで続いている。初代紀伊藩主大納言徳川頼宣卿は、3回も難病平癒を祈願されその都度御神徳をいただいたので多くの金品を寄進している。中にも寛永11年に奉納した御湯釜が残っていたが昭和25年のジェーン台風におしくも破損したのはかえすがえすも遺憾の極みである。その銘に「桜木宮御湯釜 寛永11年申戍卯月吉日紀州大納言様御祈祷ノタメ」とあった(今から240年前)歴代の紀州藩主やその若君、姫君の病気の際は必らず祈願をこめられ、何れも治癒されているので明治維新まで春の大祭には藩士数名を必らず代参せしめるの外、藩内に限り随時随所で勧化今の寄付金募金差支なしとの許可を能えられていた。(最終に代参された人たちの氏名を書いた古文書は前川宮司宅に保存している)大和高取藩主、郡山藩主等の崇敬 高取藩主植村候、郡山藩主柳沢候、四国高松藩主松平候等は、何れも家の親藩、またはつながり深い名家として崇敬篤く、植村候は文化4年在銘の石燈篭一対、郡山藩よりも延亨5年在銘藩士田中将監外をして石燈篭1基、高松藩は「桜木宮」の木彫扁額(同藩倆臣佐々木文山書と在銘)をそれぞれ献納している。(一の鳥居にかかっている)一般大衆の崇敬 明治初年頃迄は現在の近畿2府4県及び三重県等に亘り広い信仰層をもっていたので、是等遠隔の篤信者の為めに随時御神興を奉じて、各地を巡幸して其の奉拝を受けていたものの如く、特に紀州は藩候の影響を受け最も崇敬者が多かったわけで、今でも当時の寄進帳が現存しているし手水鉢や石燈篭も残っている。即ち手水鉢は重量にして約2トン紀州大野村子供中寄進の在銘のものと、約200キロ、紀州紀見村子供中の在銘のものが現に使用している。石燈篭は壱基 紀州妙寺村子供中 宝暦14年在銘等近くの大滝村(今の川上村大滝)の川本、橋本両家から宝暦11年在銘の石燈篭壱基(両家の子供衆の為めと思われる)大野村(今の吉野郡南大野)子供中から天保12年に大きな絵馬が寄進されている。(現存)この様に往古から小児守護の神様として広く厚い信仰をうけて来た神社である。以上は一般の崇敬状況の概略であるが現在でも、近郷各町村崇敬者からは御神饌料御神楽料が寄進され、毎年春季大祭には広い境内も奉納相撲ごくまき等の神賑行事が行われ、出し店も多く終日非常な賑いである。一社相伝の御神楽舞 いつの時代から始められたかは明らかでないが、現本殿が改築された元禄15年前後でないかと思われる節がある。それはこの 本殿が、少なくとも畿内諸国の崇敬者からの寄進に依り、完成されたという関係上、これ等遠国から参拝の方々多数の要望にこたえる為、どこかの有名神社から、このおかぐら舞が導入されたものでないかと推定出来そうに思う(元禄15年3月本殿完成の大祭の状況を木版にしたものが前川社家に現存しているから)それから享保、延享にかけて最も全盛時代で、朝廷の神祇管領から、このおかぐら舞に奉仕する神子には、赤色千早(舞衣)及び冠着用の栽許状をいただいている。この舞は当初から明治の中期頃までは、前川社家の相伝であったが、その後は氏女が希望に依り奉仕するようになった。御神楽舞は2人1組となって舞い、鈴、榊、扇、矛、太刀、薙刀、御幣、の七種類の舞があり、吉野郡内では唯一のものである。付近の名勝旧跡 境内の桜と紅葉 樹令200年といわれる老桜、今を盛りの山桜秋の紅葉は見事な深紅に、あたりを染め思わず足を留めて見惚れる程美くしい 万葉の象の小川 神社の前を流れる御手洗川、夏は冷気を覚える仙境 万葉の象の中山 一ノ鳥居前の山並み 源義経の転寝橋跡 象の小川の下流にかかっていたが、今はその趾だけ残っている 長曽我部家墓所 神社より約300米上方 白糸の滝(一名高滝) 吉野山上千本え登る途次高さ50米 静御前の化粧岩 同右 吉野離宮趾 宮滝のバス停留所付近 宮滝遺跡 同上(石器、縄文、弥生式土器等出土)万葉の遺跡 宮滝を中心とする周囲の山、川、野 妹山樹叢 河原屋大名持神社境内 津風呂湖 河原屋より竜門に至る広い地域 中の千本 約2粁余、喜佐谷部落、高滝、化粧岩を過ぎ、好適なハイキングコース 五社峠 宮滝より紫橋を渡り樋口、樫尾峠を経て川上村へ通じる旧県道の峠式内川上鹿塩神社 五社峠の頂上に鎮座の延喜式内社で約壱千年前の官幣小社 宮滝出土品収納庫 宮滝の中荘小学校の校庭にあり石器、土器、古瓦等を保存する。年中の祭儀 歳旦祭 1月1日 祈年祭 2月中の午の日 例大祭 4月21日 小児安全祈願祭 同日 夏祭 7月1日 宮座祭 10月17日 新嘗祭 12月7日 山神祭 同日
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