北谷稲荷神社 
   きたやいなりじんじゃ       
〒150-0041
東京都渋谷区神南1-4-1
TEL
 
由緒
神社由緒   

御由緒
当神社の創立は詳らかではないが、『新編武蔵匿風土記稿』によると田中讃岐守嵩高が文明(一四六九〜八七)の頃、駿河(静岡県中央部)より移り住んだ時、その邸内の吉方に神の来臨を請じ迎えて奉ったと記してある。三万坪の御朱印地を拝領したのだが、大永の兵火(一五二四)に記録を消失し、職員を失った。また萬治三年(一六六〇)大破の際に再建し棟札に武州豊島郡澁谷村稲荷大明神『江戸山王社家小川職部持』とあり、文明以前の鎮守であると思われる。その後承應三年(一六五四)八月、田中直高六代孫佐平が再建し、寛永五年(一六二八)四月佐平が再建した。享保十三年(一七二八)九月松平左京太夫願主として造営し明和八年(一七七一)同人が再建し、文化元年(一八○四)九月は拝殿・玉垣を献修した。当社は唇小名北谷の地に在ったことから蒙より北谷稲荷という名だった。文攻(一八一八〜三〇)の頃には境内は広く神畑や神園を有していたので「畑の稲荷」とも呼ぱれていた。明治四年(一八七一)村社に列せられる。また火伏せの神様 としても信仰が厚く、他地域よりも火災が少なかったとも伝えられている。その後、事を証する文書や什物は多く残っていたものの、昭和二十年五月二十五日戦災により社殿・社務所・神輿庫・神楽殿その他の全ての建造物を消失してしまう。昭和二十四年九月本殿一部倉亜鉛葦を造営し、同三十三年九月総檜造銅板葦拝殿を造営すると共に社務所、神楽殿を再建した。現在の社殿・建物は老朽化に伴い平成九年十一月に建造された。設計は菊竹清訓設計事務所による。 

御末社
天満宮(菅原道具公)麻疹神社 諏訪神社(健御名方神)竃稲荷神社(宇迦之御霊神)。
天満宮は土師家(はじけ)天神と言う神様の本姓から言葉にすることから、ハシカ病・及びホウソウ病等にもっとも霊験現高にして祈願すれば必ず病気は軽く平癒すると言い伝えられ、病気が軽く済むようにと参拝者が多く安氷年間及び享和年間を通じ明治初年頃まで郷の近住は勿論遠く津々浦々より尋ね来て祈願する者は昼夜を問わず社頭は群集で賑わい、昔は境内に茶屋等もあり多くの参拝者の出入りがあったと伝えられている。土師家とは菅原家の本姓だが、ハシカと聞き間違えて麻疹の病を祈る者が多かったという説もある。

日月鳥居
表參道にある鳥居は額束の正面に円形、背面に半月形で日象の浮き彫りがしてある。根岸栄極氏の『鳥居の研究』によると、眞言の六大・地水火風空識の中、水の性質は湿潤にしてよく万物を摂受する作用があり、形に表せば円形。風の性質は動性にして万物を長養する作用があり形に表ぜぱ半月形である。このことを表しているのではないかと言われている。以前は享保十三年(一七二八)に建造の物であったが、現在の鳥居は平成九年に現在の参道の大きさに合わせ作り変えた物である。
御祭神
《主》宇迦之霊大神、《配》大己貴大神、大宮比売大神、神功皇后、大田大神



現地調査報告   



現地調査日 平成 年 月 日
平成 年 月 日作成 皇學館大学神道学科

  
  
  
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