由緒 | 国津姫神社 祭神と造営・再建の歴史 当社はそもそも上古(天武天皇、白鳳時代(710年迄)の伝説によると、この古い時代の富海人が海岸守護のため、郷土の祖神として奉斎し来れる天種女神(田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命)この三女神を初めて岡の宮の地に営むとある。-この三女神は天照大神の同体分身で豊葦原の中っ国宇佐島に天降り厳島に鎮座、水徳の神といわれ、いづれの地でも海辺にて崇祭され、この富海の地にも主祭神(天津神)として祭られている。ところが、景行天皇の御宇12年(742)秋、皇軍が筑紫の熊襲征伐の途中、周防娑婆に至るとき富海防府の地一帯に多くの部衆を有する女酋神夏磯姫なる物が居て勅使に帰順の意を表したが、なお、残賊として佐波川上流あたりに皇命に反する者があったので、それらを速やかに平定し復命したと日本書紀-防府市史にある。このような機縁でこの周防娑婆一円を領した女大酋長「神夏磯姫」を推古天皇の御字に、先の天津神に対し、国津神(先住民族)すなわち併神として当社に祭る。このような神々の祭られている国津姫神社が、その後、いく度か造営、再建されて今日に至っている。そのあらましを富海村史稿により述べてみる。まず、奈良時代朱雀天皇の御宇承平5年末(1595)国津姫大明神の御託宣に依り、社殿を船山(岡の宮)より浮州(現在の社地)に移転し新たに造営される。次に、室町時代、弘治三年の乱(毛利元就が陶、大内を打つ)で富海村の大半は鳥有に帰し、当社の社殿も其の厄を被る。そこで、民心収撹の要を思い、深く神慮を懼れた毛利元就は自ら大旦那となり、永禄6年発玄(2223)社殿の再建をなす。なお、天正12年(2244)甲申4月、大旦那藤原朝臣児玉周防守就方により第3次の造営がなされている。これは永禄6年第2次の後19年目といわれている。さらに、慶長18年(2273)福原越後守寅俊の発願にて、社殿の第4次造営竣工している。これは第3次造営を去ること、僅か30年にして、拮構極めて簡潔であったためかといわれている。そして、この第4次造園の後60年にして、当時の浮洲の社地は開墾可能の地で上地利用上不経済だという理由で、公辺の指示により社殿を道場山(現在の門前山)に移すといわれている。しかしその後田畠は稔らず、村民は懼れをなし、神慮の致すところなりとして、再び社殿を旧地(浮洲)に復すという。この時延宝3年(2335)4月で道場山鎮座の間は12年であったといわれているが、年代については多少ずれている一説もあってさだかではない。これを第5次造営と記録されている。その後、元禄4年(2351)辛未9月総氏子中より石造の鳥居が寄進されている。(現在境内のもの)此時、川辺より社殿に至る附近の整頓、すなわち橋梁を架し、石垣の修業を施し、御供田周囲の区画を正し、大いに社頭の面目を整備したとある。宝永2年(2365)9月には国津姫大明神の釣鐘成るとある。その勧化帳によると、庶民道を失い五穀実らず、餓死する者も多くある世の中で富海一郷も?畝(田畑のこと)に蟲難などあって、一党の氏子を勧進し鳥鐘を鋳て、之を掛け神明を祈ったとある。このように、第5次造営から神域が次第に整い、元禄より寛政年代に石燈籠の記文を揚げている。宝暦6年(2416)に鐘樓の造営がある。これは、最初の鐘堂が簡略であったので造りかえた。当時、樓は社殿に向けて右側の前方にあったといわれる。安永2年(2433)5月には社殿の前に樓門を造っている。俗にいう拝殿のこと。その後明治34年費用2000円氏子の醵出に依り樓門を再建上棟している。安永3年甲午、本殿の造営がある。これは延宝3年の第5次造営より99年に当り、現今の社殿である。寛政元年(2449)参道両側の石垣を修補し、石橋の掛替をしている。寛政8年(2456)5月井戸及手水鉢の献進がある。享和2年(2462)12月井戸及手水鉢の上屋を造る。文化5年(2468)9月神域の周囲に石玉垣を造営する。文政2年(2479)社殿及樓門の周囲の面石を組み上げる。天保10年(2499)正月濱の大鳥居成る。明治2年7月、神佛判の然令下り、宮坊神祥寺は廃寺となる。この時、社殿の宝物多く散逸したが記録されていたものに、御本地観音菩薩、御神輿、宝劔、長刀、太刀、御獅子、鉾、法華経大般若経国書等があった。社頭の燈籠は、自然石を4段積みにしたもの、一見庭石風である台石には文政七年申三月吉日と刻され、言い伝えでは、八ツ崎開作(新開作)の落成記念だとのこと。案ずるに、この開作起工前に、開作工事の無難成功を社頭に祈念しての燈籠ではないかと思われる。(注)文中のKen は田偏に犬である。 |
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