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神社検索(山口)

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 単語例:郵便番号・住所・神社名・御神徳・御祭神 等

基本システム制作:皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会
エルネットワーク(株)
主催者:現代日本社会学部教授 新田均  顧問:落合直人
問合せ先: 神社史研究会 副会長:落合直人

検索結果

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神社ID/コード68734003 画像収集中
神社名/通称玉祖神社一ノ宮、たまっさま
(ふりがな)たまのおやじんじゃいちのみや、たまっさま
郵便番号747-0065鎮座地山口県防府市大字大崎1690番地
氏子地域
電話番号0835-24-0474FAX携帯電話
主な祭典祭典日
特殊神事
お知らせ
旧社格式内社御朱印
祈祷出張祭神葬祭
結婚式宝物館要助勤(月日)
宮司名(本務/兼務)連絡先
主祭神《主》玉祖命、祭神不詳
フリガナ
御神徳
由緒式内社、周防国一宮、旧国幣中社 玉祖神社略記 社名 古書には玉祖をタマオヤノとかタマノオヤノと訓じているが、古来周防一ノ宮であったところから、中世には「一の宮」の呼称が行なわれ、江戸時代では「一宮玉祖社」(いちのみやたまのおやしゃ)という名称が一般的であった。明治4年(1871)国幣社に列格以来玉祖神社(たまのおやじんじゃ)の呼称に統一され今日に至っている。祭神 延喜式神名帳には玉祖神社二座とあって神名は明示されていないが、主神は玉祖命で今一座は不詳である。玉祖命は玉造連(たますりのむらじ)の祖神で三種の神器の一つ、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を造られた神で別名櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)、羽明玉命(はあかるたまのみこと)、豊玉命(とよたまのみこと)、玉屋命(たまのやのみこと)とも称す。不詳の一座は神主土屋家文書や防長風土注進案では、天鏡尊(あめのかがみのみこと)、天日神尊(あまのかかみのみこと)とし、鏡を御霊代として日神と仰奉る天照大神ではないかとしているが、その天照大神を御祖神として、浜宮御祖神社(はまみやみおやじんじゃ)を当てた時代もあり、氏子中には女子の初宮詣には必ず浜宮御祖神社へも参る古習があるので、祭神を女神とするものや、玉祖命の母神とする説などがあるが未だ定説はない。しかし、祭典に当っては常に二座分の御供物を献奉る仕来になっている。由緒・沿革 天照大神の天岩戸隠の神事で玉祖命は八坂瓊曲玉を造られ、その後天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が日向国に降臨の時供奉した五伴緒神(いつとものおのかみ)の一柱として国土統治の御創業を補佐されたことは記紀に載るところであるが、社伝には、後にこの大前(おおさき・大崎)の地に座して中国地方を平定し、ついにこの地で神避りました後、御祖(みそ・江良)の地(玉の岩屋)に葬り、その威霊を祀たのが当社の起源とし創建年月は不詳であるが、以後、玉造連玉祖氏が祭祀を司ったと思われ、史料にも天平10年(738)の周防国正税帳に祢奇(祢宜)玉造部五百背の名が、更に長徳四年(九九八)今昔物語巻十七に宮司玉祖惟高の名が見える。社記には景行天皇12年(82)筑紫行幸の砌、周防裟婆(さば)に行在所を設けられたのが玉祖神社北方の宮城の森であると伝え、その節剣を奉納されたが、今御殿奥深くに宝剣として奉安されている。また、仲哀天皇・神功皇后西征の折も寄江(よりえ・神社の西南)という浜に着船、高田の土を以て沢田長(佐野焼陶工の始祖)に三足の土鼎(なべ)とHIRAKA(はち)を作らせ、神供を備えて軍の吉凶を卜された。これが今も伝わる占手神事の起源である。確実な史料で沿革をたどると、天平8年(736)より10年までの3年間、玉祖神社領の田租穀39石2斗8升を奉免翌年周防国の正税より頴稲3834束を以て神税として奉納された。神命に依て祢奇玉作部五百背にも200束が給される。大同元年(806)には従来の封戸10戸のほかに5戸を賜わる。貞観9年(867)3月10日、神階従四位下より従三位に昇る。延長5年(927)延喜式神名帳に玉祖神社2座と載る。康保元年(964)4月2日、神階正二位から従一位を授る。平安時代には田島庄、小俣庄、高墓庄の3荘園が寄進される。長徳4年(998)今昔物語中に周防国一宮玉祖大神と全国一ノ宮の初見となる。天治2年(1125)安芸權介藤原實明によって荘園並びに神社敷地ともども鳥羽天皇中宮の待賢門院に寄進される。保延3年(1137)實明の寄進状及び公験に基づいて京都花園の法金剛院に寄進。永萬元年(1165)神祇官から名神諸社に進物が下された際、大榑(材木)300寸が給される。建久6年(1195)8月5日、俊乗坊重源周防に下向、東大寺再興の功を偏に玉祖大明神の加護によるところとし、当社造替の工を起し、神宝を調進し、9月28日遷宮の儀を終える。日別供料の料田として10町歩の田地を奉免する。同日、造替目録を作成し改築の趣旨を述べる。建武2年(1335)9月、大内弘幸が社殿・神宝を造営。正平11年(1356)僧命俊、九曜巴文双雀鏡を奉納。長禄元年(1457)8月、田島(防府市中関)の氏子分離し岡庄(中関南山手)に玉祖神社を祀る。文明11年(1479)12月8日、大内政弘に差出した一宮玉祖社御神用米在所注文は大前(崎)村、宇野令、湯田保、黒河保、千代丸、下松出作、富海保、西仁井令、佐波令平井の10個所に及ぶ。明応6年(1497)4月16日、大内義興参詣し神馬を寄進。天正17年(1589)11月2日、毛利輝元、社領200石を寄進。この年より文禄5年(1596慶長元年)4月23日までの打渡坪付に法金剛院、得楽坊、菊楽坊、正満坊善得坊、正法院、宝持院、藏満坊、行泉坊の名が見える。慶長3年(1598)9月、社殿、社坊、社人の屋敷等も悉く焼亡す。慶長14年(1609)9月、毛利秀就社殿再興。寛永21年(1644正保元年)8月、鳥居建立。明暦3年(1657)8月、毛利就信(右田毛利)馬場に大鳥居建立。寛保元年(1741)9月19日、往昔供僧12口ありしが、11ケ寺はことごとく断絶寺屋敷も不明となり、別当得楽坊のみが残存す。寛延3年(1750)7月、毛利宗広により社殿造替。同時、滝長ANI が玉祖神祠記他三巻を納む。文中に「源義経平家追討の時、吉包の太刀を御社に奉りて必勝を祈らる。尊氏将軍筑紫より進発の時、猛房の太刀を奉りて大功の成就せんことを祈らる。二振の太刀今に伝へて神器とす」とあり、宝暦9年(1759)3月23日付一宮御宝物入日記に二振の太刀が記載されている。嘉永7年(1854安政元)社殿大修繕。明治4年(1871)大政官布告により国幣小社に列す。明治6年佐野若宮社が玉祖神社摂社に列格。明治10年浜宮御祖神社も玉祖神社摂社に列格。明治11年官費により大修繕。大正4年国幣中社に昇格。戦後は社格制度が廃止され、旧官国幣社は別表にかかげる神社として一般の神社と区別され、別表神社となる。昭和50年御神庫(宝物殿)新築。昭和52年9月御神殿、拝殿、神門等屋根総葺替 昭和57年4月8日、山陽自動車道建設に伴い浜宮御祖神社を旧社地北方約150メ-トルの地に遷す。この年本社参道も短縮される。祭事暦1月1日 歳旦祭 2月11日 建国記念祭 2月17日 祈年祭 3月10日 若宮社例祭 3月中 厄除祭 大崎・佐野地区の氏子の中で厄年に当る33歳の女、37、42、61、70歳の男女が協議し吉日をトして執行す。同 勧学祭 4月10日玉の祭 八坂瓊曲玉をおつくりになられた御祭神の御神徳を仰ぎ奉り、眼鏡・時計カメラ・宝石等を業とする者、玉作御祖大神の総本宮と崇め、全国各地より参詣し御神恩に感謝し、併せて斯業発展と家内安全を祈願する。眼鏡焼上神事、占手神事も執行される。4月29日 天長祭 5月上辰の日 玉の岩屋祭 玉祖命の御墓所と伝える玉の岩屋にて執り行なわれる。6月30日 大祓式 7月中 御回在祭(田道御幸)9月25日に近い日曜日 例大祭 前日に釣垂神事(つりたれのしんじ)が、前夜祭では占手神事が執り行なわれ、大祭当日早朝、3足の土鼎で白飯・黒飯を炊いてHIRAKAに盛合せ神饌に献供する。日没後浜宮御祖神社へ
駐車場有無台数トイレ
記載
最寄駅
名所・名物
地図
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