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詳細情報
神社ID/コード | 6437 | 0 | |||
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神社名/通称 | 苅田神社 | ||||
(ふりがな) | かりたじんじゃ | ||||
郵便番号 | 鎮座地 | 島根県大田市久手町1942-2 | |||
氏子地域 | |||||
電話番号 | FAX | 携帯電話 | |||
主な祭典 | 祭典日 | ||||
特殊神事 | |||||
お知らせ | |||||
旧社格 | 式内社 | 御朱印 | |||
祈祷 | 出張祭 | 神葬祭 | |||
結婚式 | 宝物館 | その他 | |||
宮司名 | (本務/兼務) | 連絡先 | |||
主祭神 | 《合》国常立神,《主》苅田比古神,苅田比咩神,倉稲魂神 | ||||
フリガナ | |||||
御神徳 | |||||
由緒 | 当社は昔から加利多明神という延喜式内の神社であります。苅田の大神は、御神名の示しているとおり、農業畜産を主宰せられ、五穀豊穣の守護神であります。この地方における式内社の中でも物部神社に次ぐ重要な地位にあり、上古から年々国幣が献ぜられました。とりわけ旱魃や長雨等による天候不順の時とか、病虫害発生の甚だしい時に於ては国司・郡領が命じて当社の祭祀を厳重に行わせ、御神護を祈ったと記録されています。更に病魔悪災を刈りとって下さる御霊験があるとして、往古から地方民の格別篤い信仰が集まった神社でもあります。現存の苅田神社々記によれば、第五十九代宇多天皇の寛平七年、当町鈴見の里、神谷山の烏帽子端(えぼしばな)という大巌石の上に、既に御鎮座になっていたといわれますから、創建の時は更に遠い以前のことでありましょう。その後、万寿三年寅の洪水といわれる、前古未曾有の大水害があり、山は崩れ谷は裂け、波根湖が大氾濫しました。当社の本殿・拝殿・楼門・回廊を始め末社等悉く漂流しましたが、幸い御神体の内二体が、矢代柳の大樹にかかって、それを奉遷することが出来ました。こんどは神谷山の麓に社殿を造営しましたが、これより昭和三年まで、実に1000年の間の、御鎮座の地となりました。又当社の御祭神の内に、倉稲魂命さまがおいでになります。この神様は、一般的には正一位稲荷大明神と申して、商売繁盛、福徳開運十種の神様として、庶衆の信仰の厚いところであります。然しながら、この神様も亦、本来、稲作の神様であり、苅田の大神様とは表裏一体をなす御神格であります。明治40年には、久手町や柳瀬(やなぜ)の里に、それぞれの鎮守さまとして祭っていた両所の大元神社が、政府の指導に基づいて、当神社に合祀されました。御祭神は国常立命と申し、国土創世にお出ましになり、万物万象を生成化育し調和を掌り給う神様であります。この苅田神社が、永い間、神谷山麓に鎮座されたわけでありますが、その間、当神社の御霊験があらたかとて、御神徳を慕った大田、稲用、久利方面の百姓たちが、御神体を持ち出そうとして、神社の争奪に及んだという伝説が残っているのも、誠に面白く意義深いことと申せましょう。然しながら神谷山麓は、名に負う湿潤地帯で、建造物にとってふさわしからぬ所でありまして、且つ時代の変遷と共に、氏子の生活圏の中心が、旧山陰道筋から、次第に海岸線へと移り行くにつれて、早くから神社移転の要望が出て来ました。やがて、それが運動へと盛り上がり、関係筋への陳情を重ねた結果、ようやく認可を頂き、昭和三年の春、歴史的聖地神谷山麓から、現在地へと御動座になりました。 | ||||
駐車場有無 | 台数 | トイレ | |||
記載 | |||||
最寄駅 | |||||
名所・名物 | |||||
地図 | |||||
HP(主) | 神社写真/HP(副) | ||||
御影 | |||||