由緒 | 甲弩の名は承平4年(934)の和名鈔に見える。当社は甲弩郷7ヶ村の大氏神であったと伝えられているところから、その創建は甲弩郷の置かれた奈良時代まで遡る。神護景雲元年(767)とも言われる。 社名は艮明神(丑寅)また単に大明神とも呼ばれる。源平戦乱の兵火のため社殿が焼失したが、中世に小田氏の尊信を受け多くの社領が寄進された。小田氏は室町幕府の家臣床上小松。これが後に小田清秀と改まる。正平2年(1369)小田の地に入封。小田、甲弩、山口、新賀の4ヶ村を領した。 小田氏転封の後衰微したが、江戸時代に池田領になって再興。寛永14年(1637)備中松山城主池田出雲守長常によって再建。本殿は降って宝永7年(1710)代官万年七郎右衛門尉の崇敬によって再建。明治5年小田県当時村社に列格。明治40年神饌幣帛料供進神社の指定を受ける。 拝殿は3間×2間の単層入母屋造。本瓦葺、正面に唐破風の向拝をつける。数度の修理を経ながら昔の様式を残している。昭和33年笠岡市重要文化財指定。 氏子は領家地頭の二種あり、各約1反の田を有し、宮山は良材と豊富な松茸を産し富裕であったが、明治以降また戦後悉く没収改廃せられ、専任の神職なく衰微したが現在は氏子の協力により鋭意復興中である。 |
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