由緒 | 産土神、風宮龍田神社の御祭神は天御柱大神、国御柱大神の二荒魂と龍田比古大神、龍田比女大神、陰陽二柱の皇神である。風雨を鎮め水難・疫病を防ぐ神と 楓・桜等の四季を司る神を祀る。五穀豊穣、息災長寿天地萬有厄除の神である。延喜式神名帳記載の龍田地主大神である。他に末社として12社を祀る。大和川の北岸、風光明眉な楓の竜田川の北東の神奈備、御廟山の南麓に鎮座し敬神の中枢である。十代崇神天皇の御代に年穀の凶作が続いた時、帝自ら卜占をもって占い、天神地祇を「朝日日照處、夕日日陰處」竜田小野である龍田山の聖地に大宮柱太敷立鎮座された。たまたま聖徳太子(16才)が法隆寺建立を企てられ橘の京から来られて平群川(竜田川)の辺りに伽藍建設地を探し求められた。その時聖徳太子は椎坂山で白髪の老人に顕化した竜田大明神に会い、まだらばと(斑鳩)で指示して貰った地を法隆寺建設地とされた。即ち「こゝから東にほど近い処に斑鳩の里がある。そここそ仏法興隆の地である。吾また守護神となろう。」依って太子は法隆寺建立と同時に御廟山南麓の地に鬼門除神として竜田大明神を移し祀られた。その后、法隆寺より法施僧(別当坊)30口(30人)を給ひ、竜田三十講、平群四十八郷(当時の平群四十八郷は現在の生駒郡、郡山市も含む)の産土神として荘厳なる祭儀が執り行なわれた。(聖徳太子伝私記)それで法隆寺は竜田神社の社務を管理してきたもので、神社の由緒、祭礼、神田等法隆寺の記録に出ている。中世の有様は「嘉元記」に竜田参りや、田楽、猿楽について詳しく伺われる。一説に能楽発祥の地とする学者もある。中世は現在の建物の外に、東には塔と経堂があり、門前、北坊、新坊、かや坊、法心坊、惣坊、東之坊、等各坊屋敷が集っていた。拝殿の東側には神仏分離の時代に醍醐へ持って行かれた胎金堂(大日堂)があった。楼門の西には北房、いなばや、与三郎屋、その他鐘楼、とかり屋、みさと屋、観音堂、高安座等十二座等あり、荘厳、広大な規模を持った神宮寺であった。(神社古図)歴代天皇の崇敬殊に厚くしばしば勅願の御寵遇を受けたのもむべなるかなといえる。古来より竜田は神代の竜田として紅葉の勝地でもある。萬葉の御代よりかくれた静かなこの旧蹟を、この神社を訪れる文人、歌人の雅客は絶えない。 |
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