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神社検索(三重)

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 単語例:郵便番号・住所・神社名・御神徳・御祭神 等

皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会と三重県神社庁教化ホームページ委員会とが共同で制作しています。
平成5年に神社本庁が作成した「平成の祭」CDのデータを補助的データとしても使用しています。
制作:皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会
主催者:現代日本社会学部教授 新田均  顧問:落合直人
問合せ先: 神社史研究会 副会長:落合直人

検索結果

詳細情報

神社ID/コード30024219019 画像収集中
神社名/通称彌都加伎神社大宮さん
(ふりがな)みずがきじんじゃおおみやさん
郵便番号513-0814鎮座地三重県鈴鹿市東玉垣町 1412
電話番号059-382-6463FAX
主な祭典10月第2日曜日
宮司名遠藤 龍夫 
旧社格延喜式内社(旧村社)
連絡先
主祭神《主》大土御祖神,《合》大山祇命,菅原道真,《配》埴安比売神,素盞嗚命,天忍穂耳命,天津日子根命,熊野久須毘命,多紀理比売命,市寸島比売命,事比羅神,速玉之男命,奥津島比売命,品陀和気命,大日霊命,狭依比売命
ふりがなおおつちみおやのかみ
御神徳特に土に携わる職業の方々の安全繁栄
由緒遠い昔からこの土地で土に携わって生活をして居た人達や、土地の有力者の人等が相談をし、土を司どる神、大土御祖神を聖武天皇天平13年(741)、山田原の御霊を海部村に勧請し、後に村の中の清浄で村人などの集まりやすい中心場所である現地に移し、瑞籬村と称してお祀りし、それが現在の彌都加伎神社の起源となり、光仁天皇の御代宝亀元年(770)に井上新王の霊夢により御厨より、御供糀を豊受宮に奉献することとなり、祭神の大土御祖神に土之御祖神、埴安比売神を合わせて奉斎する事になったと言われ、和名抄郷名の資母郷が玉垣村に当たるといわれ古い郷である。玉垣御厨に関する記録として、延文5年の「神鳳鈔」には「玉垣御厨内宮82町3段余九石6.9.12月」とあり、地域の広大さがうかがえる。「宗祇名書方角」には「古は御厨の10人衆と云うものありしか、今は亡ふ」と記され、こうした神領地の運営も推察される。慶長19年~安永9年の間(166年間)に10回の修繕、御造営の事実を伝える棟札ある。明治2年3月明治天皇御東幸の途次亀井茲監を勅使として奉幣代拝の処遇を受けた。明治39年神饌幣帛料供進指定神社になる。明治41年村内無格社を合祀、昭和4年、先に合祀した須賀、宇気比、胸形、熊野、八幡、深田、吉田の7神社に合祀前の祭神を祀り、氏子区域は旧玉垣村(現東玉垣、西玉垣、南玉垣、北玉垣、4町と桜島町、末広町)全体である。醍醐天皇の延喜5年の頃、社名を彌都加伎神社と改めたが、以前は土宮、或は土御前と呼ばれ、陶器、左官、粘土、土木工事、各業の外農民はもとより土に携わる職業の人達、又豊受宮に糀の奉献により酒、みそ等の職業の人達の多くの崇敬をあつめ、当時の御神徳の深さをうかがい知る事ができる。
特殊神事
氏子地域東玉垣、西玉垣、南玉垣、北玉垣、桜島、末広
宮司記載
HP(主)彌都加伎神社ホームページ(主)へ
御影画像収集中

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