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詳細情報
神社ID/コード | 2992 | 4218022 | |||
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神社名/通称 | 岡八幡宮 | 岡さん | |||
(ふりがな) | おかはちまんぐう | おかさん | |||
郵便番号 | 518-1151 | 鎮座地 | 三重県伊賀市白樫 3638 | ||
電話番号 | 0595-20-1828 | FAX | |||
主な祭典 | |||||
宮司名 | |||||
旧社格 | |||||
連絡先 | |||||
主祭神 | 《主》誉田別命,神功皇后,仲津姫命,仁徳天皇,伊賀津彦神,伊香津姫神,《合》天児屋根命,菅原道真,火之迦具土命,大物主命,健速須佐之男命,蛭子命,五男三女神,愛宕将軍地蔵 | ||||
ふりがな | |||||
御神徳 | |||||
由緒 | 源頼朝公の直命で鎌倉の鶴岡八幡宮の末社を全国に配置する計画の第一号として、白樫に完成されたもので、当時の伊賀のワクを越えた、日本的発想によって建設されたものなのです。費用も全額、鎌倉殿(頼朝公)の負担でした。一一八九年(文治五)六月、奥州平泉の藤原泰衡に、弟・義経を攻殺させて後、頼朝は泰衡追討の院宣を得て三十万の大車を召集。三道から一斉に奥州に攻め入る準備を調えた上で、源家の守護神である鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝し、戦勝を祈願しました。その時、頼朝は「今度の戦いに勝ち、日本全土を平定した暁には、御礼として鶴岡八幡宮の末社を全国六十余国に建立いたします。その第一番に建てる国は、どこの国にいたしましょう」と神の意を伺ったところ、「伊賀の国に建てよ」との宣であったといいます。頼朝は同年九月、奥州攻略後、岡八幡宮建設計画を立て、神社の敷地を敢国神社がある佐那具から遥かに離れた白樫の地にとりました。同村猪ノ谷に方四町の神域を設け、鶴岡八幡宮の第一号末社の建設にとりかかり、翌一一九〇年(建長元)四月にその工事を完了させました。社名の「岡八幡」は、鶴岡八幡宮の末社である事を示す略称で、伊賀を最初にして漸次、全国に建設される予定でした。だが頼朝の没後、中止されたので岡八幡宮は伊賀の白樫が最初で最後の建設となったのです。頼朝は、岡八幡宮の初代神主として、鶴岡本営の神官豊氏久勝の弟、勝宗を起用し、下官八人を添えて白樫に送り、定住させました。そして寺社領田として百石の田畑を寄進、神社経営の基盤も確保したのです。社宝としては頼朝公直筆の「御縁起白樫村根源記」、元禄時代の郷士史家菊如幻の「岡八幡御縁記」の二書、頼朝公寄進の銅幣(一一九〇年=建久元の銘入り)があります。ほかに徳川家康公、一五八二年(天正十)伊賀越え帰国の際の神助を謝し、伊賀忍者(藤堂采女)に代参を命じ、その折、寄進さぜたこま犬の石像一対(三河・岡崎の産石で製作)などが現存していますが、いずれも希有の逸品です。 なお、神社の境内では、創建以来、祭礼には必ず流鏑馬が行われていました。正月七日には、山神大注連縄(しめ縄更新)、八日には古神道の探湯の行事と弓始め祭りが行われ、珍しい探湯神楽が奉納されます(現在も続行中)。境内には、徳川三代将軍家光の時代、三十七歳の若年で亀山城主となった白樫出身の中川甚兵衛重規が奉納した等身大の木彫神馬を納めた堂があります。この木彫袖馬は、戦国末期、白樫出身の槍術の名人・高田又兵衛が鶴岡八幡の境内で近隣の若者たちに槍術を教えていたころ、甚兵衛も又兵衛について槍術を学び、そのお陰で出世できたとしてお礼代わりに奉納したという、大変珍しい由緒のあるものです。 このほか、鶴岡八幡の境内で有名なものは、市の天然記念物に指定されている一位樫の大木で、樹齢五百年といわれています。 | ||||
特殊神事 | |||||
氏子地域 | |||||
宮司記載 | |||||
HP(主) | |||||
御影 |