由緒 | 当社は往古金刀比羅大権現と称したが、明治の神仏分離令により、権現号を改め金刀比羅社としたものである。『神社明細帳』によれば、「この社旧号金刀比羅大権現と称して、元常明寺梵刹の鎮守なりしなり。勧請年月不詳と雖も該寺は今を去る6、700年以前の開基にして、僧徒大神宮へ読経法楽の砌、神垣の内を憚りて此の寺に参籠法楽なせしこと旧記に見え、且慶長元和の頃、一代の僧此の金刀比羅神社再建、又其後天明の頃、社頭新に造営す。且讃岐国象頭山金刀比羅の分霊を崇祀せしものならん。然るに御一新後、金刀比羅神社と改称す。又該寺住職も帰俗なしにより右寺号を失せり。」とある。天明年間(1781~1789)改造以前は、小さな祠であったらしく、『神都雑事記』『小祠捨』等にその記載が見える。尚、この常明寺が鎌倉時代以前の古刹であることは、度会行忠神主の『古老口実伝』に書かれており、当社も古くからの旧祀であることが窺い知れる。古くは旧常明寺境内本堂の西南に東面して鎮座していたが、明治2年頃、本堂退去後、同境内今の地に遷移、南面して鎮座し常明寺門前町といった町名を、倭町と改称し、産土神として尊崇した。しかし、明治42年3月11日、神社合祀令により、箕曲中松原神社に合祀され廃絶の憂き目に逢った。昭和22年12月10日、氏子の総意により、箕曲中松原神社から分祀し、旧社地に奉斎した。この時、同時に箕曲中松原神社に合祀されていた、村社神落萱社(・・草葦不合尊又は草野姫命)、無格社尾上社(倭姫命)、同稲荷社(宇迦御魂神)、同三輪社(三輪神)を、箕曲中松原神社から分祀して、当金刀比羅神社に合祀し、今日に至っている。 |
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