磯神社 
       
〒515-0504
三重県伊勢市磯町 1069
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由緒

 
神社由緒   

御由緒
当社の創建は古く皇大神宮(伊勢の神宮/内宮)創祀の古代に遡り『皇大神宮儀式帳』『延喜式神名帳』に社名が記載されている。 『倭姫命世記』によると、垂仁天皇25年(紀元前5年)3月、皇女倭姫命が天照大神の大宮地を求めて諸国を御巡幸。 皇大神を奉じて「伊蘇宮/磯宮」に遷幸されたのが創祀である。大御神が宇治郷五十鈴川上の現在地に御鎮座後もその行宮旧跡は大切に守られていたが、 後年の宮川の洪水で崩壊したため、現在の伴信友著『神名帳考証』に記載されている「八王子社」の社地に移遷した。 明治41年、境内社「清濱社」、無格社「本殿社」、無各社「山神社」二座を合祀し現在に至った。 元伊勢宮の一社に比定される社として全国から多くの元伊勢宮巡拝者が訪れ尊崇されている。 「延喜式内神名帳」の伊勢国度会郡の磯神社がこれであり、延喜式内郷社に列せられた。

「社名」 『延喜神名式』諸本「イソノ」と訓み、異訓なし。伊勢国度会郡十三郷の一郷として「伊蘇」があり(和名抄)、当社の社名は鎮座地の郷名に由来するものであらう。 【由緒】 当社は、伊勢神宮の創祀と深い闘係の傅承を有する社である。すなはち、『皇大神宮儀式帳』の倭娘姫巡行記事のなかに、壹志・飯野・多気と綾いて、「次玉岐波流磯宮坐次百船度会国」とあり、 また『倭姫命世記』には、「(垂仁天皇)廿五年春三月、従飯野高宮遷幸于伊蘇宮令坐、干時、大若子命問給、汝此国名何、白百船度会国玉伊蘇国白、」ともある。 ここにみえる「磯宮」あるいは「伊蘇宮」といふ行宮の跡に建てられたのが、当社「磯神社」の起源であると伝えられてゐる。  しかし、当社については『延喜神名式』や『延喜齋宮式』にその名がみえるが、皇大神宮・豊受宮の管攝する社のうちにはその名がみえず、先の「磯宮」・「伊蘇宮」との関連を示す直接的な史料もまた存在しない。 「磯宮」・「伊蘇宮」にっいては、『神名秘書』には「伊蘇國伊蘇宮、在多気郡逢鹿村字古宮本古河處也、機殿相去十五里許云々是則御麻圃四處内也」といふ書入れがあり、その舊跡を多気郡迄廃村の古宮の地に比定してゐる。 本居宣長も、磯宮と磯神社の関連を認めつつも、磯宮は度会郡ではなく「多気郡の相可郷のあたりなりとも云へり」(『古事記伝』)としてその判断を留保してをり、また荒木田経雅は多気郡の伊蘇上神社の存在に注目してゐる(『太神宮儀式解』)。  これらに對し、「磯宮」・「伊蘇宮」と「磯神社」との関連性を主張したのは御巫清直で、それは常社の地勢や、古老の伝承をふまへた上での判断であった(『太神宮本歸正』・二宮管社沿革考』。
『式内社調査報告』より引用

御祭神
正殿一座・相殿二座:天照坐皇大御神、豊受毘賣大神、木花佐久夜毘賣神
境内社:宇都志國玉神「清濱社」、菊理姫神「白山社」、大山津見神「山神社」



→式内社調査報告(昭和52年発行)  皇學館大学出版部

  
  
  
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