第十三代成務天皇(一三一年)の御代に御鎮座にして、第五十六代清和天皇
(八五八年一八七六年)御時御造営に際し勅して、応神天皇を配祀せしめられました。 応神天皇の御神像は束帯乗船の香木で世に出船八幡と申され俗に古井八幡と称せられます。
延喜式神名帳(九〇一年)には愛知郡の部に「高牟神社あり、小社なり」、また
国内神名張には「従三位高牟久天神」参考本国張に「従三位高牟神社天神一本作往回位下高牟久」と記されています。昔、このあたりは尾張物部氏の集落の一郭で、古くは常世の草香島とよばれ、各所に清い泉が浪々と湧出し枯れたことがないといわれていました。境内にも清く冷たい水の尽きない古井があり、もとは礦泉として思いがけない効果が得られ、応神天皇の祝水として産湯にこの霊泉の水を献上したと伝えられています。
元古井の地名は、このゆかり深い古井からきていると言われています
この高牟神社は尾張物部氏の人々の武器を納めた庫が、後に神社となったもので
「牟」は絆に同じく古代武器の代表、「高」は美称です。平安時代末期、弁慶が子供のころ、ここ高牟神社の神宮寺(現在の光正院)に
居て、大般若経五十巻を筆写しこれを高牟神社に奉納しました。(大正十三年回月焼失)。また、弁慶手植えの松七本、フクラシバの樹も昭和初め頃まで大木として繁茂していましたが、すべて枯れ死してしまいました。
第十三代成務天皇(131)の御代の鎮座にして、第五十六代清和天皇(895)の御時御造営に際し勅して応神天皇を配祀せしめられる。応神天皇御神像は束帯乗船の香木座像で世に出船八幡とも申され俗に古井八幡と称せられる。
延喜式神名帳(901)愛知郡の部に「高牟神社あり小社なり」国内神名帳に「従三位高牟久天神」参考本国帳に「従三位高牟神社天神一本作正四位下高牟久(古井村号八幡)」尾張国式社座地目録に「高牟神社(鳴海庄古井村)」尾張神名帳集説、参考本国神名帳集説、塵点録には「按姓氏録日、高向朝臣、武内宿祢六世孫、猪子臣之後也、云々私曰、武内宿祢仕応神帝有勲功、故石清水祭之、号上高良、称八幡者、有其故乎」といへり嘉吉元年(1441)、寛正2年(1461)11月、天文元年(1532)9月、永禄8年(1565)5月、慶長8年(1603)11月等に改造あり。
寛永11年(1634) 正月山下大和守氏勝修理を加へ天和3年(1683)9月藩守光義(瑞龍院)修覆せられし以来城南の鎮護として崇敬せられ絶えず修造料を賜はる。
元禄11年(1698)5月、宝永6年(1709)12月、享保7年(1722)4月、寛保元年(1741)寛延3年(1750)9月、宝歴8年(1758)天明6年(1786)8月、弘化4年(1847)2月に各修造御遷宮がありました。
明治初年式内に治定され、同5年5月御社に列せらる。大正13年4月社務所火災にて焼失す。同年7月本殿、祭文殿、渡殿、楽舎、神饌所内外玉垣等を改築東し、神楽殿、宝庫、社務所を新築大正15年10月13日竣工遷宮祭を行った。昭和15年県社昇格事業として御本殿(5坪)斎館(30坪)の新築及御拝殿改増築を行ふ。昭和19年県社昇格内定される。 |