猿投神社 
    さなげじんじゃ       
〒470-0361
愛知県豊田市猿投町大城五番地
TEL 0565-45-1917
 
由緒

 
神社由緒   

御由緒
猿投神社は豊田市の北端にそびえる三河の名峰猿投投山の麓に鎮座する古社である。 創祀は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀るとある。猿投山の東峯に東宮、西峯に西宮を祀り、本社、東宮、西宮を総称して古くより猿投三社大明神と厚く崇敬されてきている。 神階は文徳天皇仁寿元年(八五一)に従五位下、陽成天皇元慶元年(八七七)に従四位下に叙位している。以後記録は絶え、昇叙について明確な事は判らないが、社蔵神号額(嘉元二年=一三〇四)には「正一位猿投大明神」とあり、三河国国内神名帳にも「正一位猿投大明神」とあるので、正一位に昇叙したことが判る。 社格は延喜の制(九六七)では国幣の小社(三河国二六座、賀茂郡七座)で、一官制か施行されるや、砥鹿神社、知立神社についで三河三宮と称された。明治の新制度では、明治五年県社に列し、広沢天神社(延喜式内社)塞神社、小猿投社を合祀した。昭和になり広沢天神社は再び広沢の地で祀られるようになる。明治中頃より国幣小社昇格を建議し、後年内定したが、大東亜戦争の終息によりその目的は達せられなかった。 神領は、織田・豊臣二氏の先規により徳川家康公が高七七六石(神社では三河国一位)の朱印を付し、明治維新まで続いた。此の外の武将も多くの神領を寄進したことが社蔵の寄進状によって知ることができる。

元旦祭 一月一日  祈年祭 二月十七日  初午祭 旧二月初の午の日  広沢天神祭 旧二月七日   大祓(茅の輪くぐり)六月三十日  例大祭  十月第二土・日曜日  新嘗祭  十一月二十三日   塞ノ神祭  旧十一月七日  大祓  十二月三十一日  月次祭  一日・十五日

左鎌の由来
古来より左鎌を奉納して祈願する特殊な信仰がある。其の由来については記録かないので判然としないが、古老の言い伝えによれば双生児の場合には一方が左遣いの名手であると言う。祭神大碓命は小碓命とは双生児であるので人々が命は左遣いであらせられ、当時左鎌を用いて此の地方を開拓せられた御神徳を暮って請願の成就を祈る時に左鎌を奉納する。 現在は職場安全・交通安全祈願を祈る会社関係の奉納かさかんである。

猿投山とサナゲの語義
社蔵縁起書に「景行天皇五三年天皇が伊勢国へ行幸、常に猿を愛し玉座に侍せしむ。猿の不祥あり。天皇にくみて伊勢の海に投げ給ふ。其の猿、鷲取山に入る。日本武尊東征の時、壮士三河国より来りて従う。平定の後、尊に曰く、先に愁思を蒙れる猿なり。勅思に報ずる為、扈従し奉ると言い終って鷲取山に入る。猿投山の称、是より起る」とある。  標高六二九米。山中に天然記念物「菊石」がある。又、団九郎岩屋、御船石、蛙岩、屏風岩、御数石等の伝説豊かな巨岩もある。  サナゲの語義について、文徳実録・延喜式神名帳には共に「狭投」と記し、三河国国内神明帳・神号額には「猿投」とある。従来の諸説を挙げてみると ・前記縁起書にある猿を海に投げたより起こった。 ・山容か鐸に似ているから ・鐸を木の枝につけて祭祀を行った。 ・大碓命薨去を悲しみ真嘆山が猿投となった。 等の諸説があるか断定はし難い。

祈祷の御案内
 受付時間九時〜十六時
 家内安全  職場団体安全  交通安全  初宮詣  七五三詣  厄除祓
 安産等を奉仕しております。

御祭神
主祭神  大碓命
相殿  景行天皇(第十二代)
     垂仁天皇(第十一代)

大碓命は景行天皇の第一皇子で、小碓命(日本武尊)とは同胞双生児である。日本書記に「大碓命が東征を欲せられなかった為に、美濃国(岐阜県)へ封ぜられ、三野国造の祖神の娘二人を妃とせられ。二皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」云々とある。 社蔵の縁起書(光仁天皇宝亀十年(七七九)に大伴家持、阿部東人による調査書)に「景行天皇五二年(一二三)、猿投山中にて蛇毒の為に薨ず、御年四二歳、即ち山上に斂葬し奉る」云々とある。現在、西宮後方に御墓所がある。この地に古くより御墓所として伝えられて来たが、明治八年教部省の実地調査の結果、現在地を御墓所と確定し、以後守部、墓丁が置かれ現在に至っている。

猿投神社由緒記より

現地調査報告   



現地調査日 平成 年 月 日
平成 年 月 日作成 皇學館大学神道学科

  
  
  
→神社由緒  →周辺案内  →境内案内