野見神社 
   のみじんじゃ       
〒471-0813
愛知県豊田市野見山町4丁目21
 
御由緒書

 
御由緒・御祭神   

御由緒
祭神野見宿禰は出雲国造氏と同族で、天穂日命の14世の孫で、飯石郡野見の地に誕生し給う、故に名とした。斯て垂仁天皇7年勅命によって都に人を苦しめる悪虐非道な當麻の蹶速を一蹴をもって之を倒した。又土師部を率いて土偶を作り殉死を禁ずる等偉大な功績があった。後世相撲、土器の祖神として仰がるる所以である。當神社の創立は垂仁天皇22年(2006年前)で、延喜式神名帳(1075年前)に日ふ加茂7座の内の第1野見神社、国内神名帳に日ふ正五位下野見天神であって、当時の社格国幣小社に列せられて祈年祭の幣帛に預り給い、西三河著名の古社である。後世渡辺藩の武運長久領内安全の祈願所であった、明治41年10月愛知県は神饌幣帛料共進神社に指定し、大正5年10月名勝旧跡として標柱を建て、昭和17年10月内務省は郷社に昇格した。終戦後宗教法人となり愛知県神社庁9級社となり、昭和52年10月本殿以下の建物を改築した。

御由緒2
相撲・土師祖・甘美乾根命(野見宿祢)をまつり、元郷社・愛知県神社庁9級社野見神社といい、野見区・下野見区一円を氏子とする。垂仁天皇の頃、 末野原(トヨタ町附近)や矢作川沿岸に住んでいた土師部らが、その祖宿祢を野見山にまつり、灯明を献じたと伝えている。その土師部を葬った塚を土師塚といい、 野見町1丁目(旧字三ッ塚)にある。むかしから名神として知られ、文徳実録(851)に「野見神授従五位下」・延喜式(927)に 「賀茂郡7座の1の野見神社」・国内神明帳に「正五位下野見天神」とある。古伝に弘治2年(1556)3月に社殿を焼失し社宝・古記録を失うと伝えている。 当時天台宗弥勒山牛寺などの神宮寺があったが、永禄年中(1558〜)に兵火にかかり焼失したという。また社伝に中世に高橋蔵人・丸根美作守らが社領を寄進したといい、 慶長年中(1596〜)に田中兵部少輔吉政が社領を安堵した。寺部城主渡辺侯も代々崇敬され、 天保3年(1832)12月に渡辺兵庫頭規綱から大石灯籠が寄進された。また同14年(1843)11月家臣松本又右ェ門他20名で大石灯籠が寄進された。 明治41年(1908)10月26日村社となり、昭和17年(1942)10月3日郷社に昇格した。社主鈴木氏は紀州熊野の人であったが、 大阪城落城後、当地にきて社主となったと伝えている。代々の社主は当社及び兵主神社の祠官であった。領主規綱のときに社主鈴木信濃正藤原重光は野見山の一部、 1反6畝20歩を宅地として下附された。昭和21年(1946)7月25日宗教法人令による届出をし、同22年4月1日旧社格を廃し、 新神社等級9級社となる。同27年(1952)11月4日宗教法人法による「宗教法人野見神社」設立認証され、同年11月14日設立登記した。境内神社に 兵主神社・秋葉社・八柱社・金刀比羅社・竹生嶋社があり、野見山町3丁目に山神社がまつってある。境内は史蹟名勝地として愛知県から指定されている。 社宝に文化4年(1807)3月玉田永教が著した「野見神社縁起書」をはじめ、棟札その他多くが現存されている。
『豊田市文化資料編 寺社編1』(豊田市教育委員会、昭和45年6月)30、31頁より

御由緒3
野見山は、矢作川の横たわる明治用水源の堰堤東詰から、川沿いの道を約1.5km北上したところにある河岸丘陵である。
野見山の山頂には、延喜式(平安時代の律令の法典)で加茂7座に列せられた野見神社の社殿がある。祭神は相撲と土師の祖野見宿祢で、 古来信仰の山として知られている。山は風光と眺望に優れ、近年観光地として脚光を浴びるようになったが、遺跡にいてはあまり知られていない。
野見神社は弘治2年(1556)火災により社殿・社宝・古文書等を焼失したと伝えられ、さらに、永禄年間兵火により神宮寺弥勒山牛寺も焼亡したため創始は明らかでない。
祭神野見宿祢が当麻蹶速と力争し蹶速に勝った話や垂仁天皇の皇后日葉酢媛の崩御後に、宿祢が殉死に代わる埴輪の制を案出し、 国もと出雲から土師工100人を呼んで埴輪を作らせ、土師連に列せられた話は一般に知られているが、宿祢と当地との関連は明らかでない。
『豊田の史跡と文化財』(豊田市教育委員会、昭和60年3月)196、197頁より

御由緒4
名鉄豊田市駅よりバスで五ツ丘ニュータウンで下車、西側に野見山が間近に見えます。思ったより山は深く、 山裾を巡って登山口を捜す。南側の矢作川のほとりに朱塗りの鳥居があり、石柱に「野見神社」とあるます。山を登る。野見山は標高109米の山ですが意外に山深く、 九十九折の道です。社殿前には、土俵が作られています。奉納相撲が行われるのでしょう。
祭神野見宿禰は、一宮市に鎮座する野見神社で述べたところですが、天穂日命の14世孫とされ、土師氏の祖神とされています。日本書紀に、 当麻蹶早と相撲を取って勝ち、国技相撲の祖とも言われています。同時に垂仁天皇の御代、埴輪をつくって、 それまでの殉死の制を取止めた功績により土師氏の祖と仰がれるようになりました。但し現在の神社明細書には、祭神甘美飯根命とあります。
野見神社の創始は垂仁天皇の御代とされます。豊田市史によれば、矢作川沿いには、いくつかの古窯跡があり、その中から埴輪を伴焼した遺跡も確認されており、 土師部の一族が、矢作川流域に分布し、この野見山の地にも、その支族が居住したのでしょう。土器を焼いた跡が野見山に残っている とのことです。彼らが祖神を祀ったのが野見神社でしょう。江戸時代は白山社と呼ばれていました。
『愛知の式内社とその周辺』(小林春夫著、式内社顕彰会、平成13年5月)213、214頁より

御祭神
《主》野見宿禰,大己貴命,素戔嗚尊



現地調査報告   



現地調査日 平成 年 月 日
平成 年 月 日作成 皇學館大学神道学科

公式HP  
  
  
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