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神社ID/コード13320 画像収集中
神社名/通称宗任神社宗道神社
(フリガナ)むねとうじんじゃそうどうじんじゃ
郵便番号現鎮座地茨城県
鎮座地調査年平成5年当時鎮座地茨城県下妻市本宗道89
氏子地域
電話番号FAX携帯電話
主な祭典祭典日
旧社格式内社御朱印
祈祷出張祭神葬祭
結婚式宝物館要助勤(月日)
宮司名(本務/兼務)連絡先
主祭神《主》阿部宗任、《配》阿部貞任フリガナ
御神徳
由緒豊田三十三郷・幸嶋十二郷 総社 宗任神社略記 鎮座地 茨城県結城郡千代川村大字本宗道 御祭神 主神 阿陪宗任命(鳥海弥三郎宗任)父は頼時 配祀神 阿陪貞任命(厨屋川次郎貞任)宗任公の兄 当社に伝わる安倍系図に、人王一代、長髄彦の兄安日は神武天皇の時追放せられて津軽(東日流)に住し外浜安東浦を領す。斉明天皇御宇、蝦夷乱る。安倍比羅夫を将軍として差向らる。此時、安日が末葉に安東という者来り我は安日の末葉也と。比羅夫其功を賞して安倍氏を与え同姓とす 人王六十六代、安倍頻良・〓安東太郎(頼時)・〓嫡子 日井(盲人)・〓次男 安東太郎良宗(よしむね)・〓三男 厨屋川次郎貞任・〓四男 鳥海弥三郎宗任他四男二女又、当社の縁起記には、人王八代孝元天皇第一皇子大彦命十代後胤阿陪太丸臣末裔安太夫忠頼忠良頼時三代、以下同じ。*“あべ“の漢字は阿部、安倍、安部、阿陪、共に同じ。*宗任命貞任命とは、東北地方の豪族で「前九年の役」(西暦1051~1062)で歴史上反逆者と言われておりますが、逆に民衆からは、長い間崇敬され続けられております。*宗任大明神略伝記に、宗任命身長6尺4寸、貞任命身長7尺5寸。由緒 阿陪宗任公死一等を減じて、肥前に流され九州在住47年、天仁元年戊子9月9日享年78歳にして亡くなる。松本七郎秀則の夢の中に、宗任公の霊魂妙音を以て告げる、「・・是より南尽未来際に鎮衛、有緑の地有り。抑も汝秀則、秀元父子は、是れ則ち我が家臣の末裔なり。且つ将に落葉の諸臣処処に漂泊して、在在に沈没す。其中に於て、稀に我が祖先の恩顧を追憶し、志を一にし、信を凝らす者有り。昔年我が著くる所の青龍と名づけし甲冑、封じて今現に鳥海の古城の石窟に在り。尋ねて探索し出だして各々護持し、以て南方に行くべし」。天仁2年、松本七郎秀則子八郎秀元父子と旧臣(普代郎)24名(和泉氏、栗原氏、小田氏、岩瀬氏、高野氏、黒川氏、佐藤氏、村山氏、岩手氏、上山氏、斉藤氏、岩沼氏、山本氏、安積氏)等と共に、宗任公の遺物を奉じ出羽国鳥海山麓を発して、野州二荒山麓にたどりついた。そこで一夜の宿を求めた樵の教えに従い、東南に数里ほど下ると、小さな舟に乗って魚捕りをしている者に会った。まさに樵の教える通りであった。一同は魚夫に頼んで、その小舟に乗せてもらい、川を下ることとなった。魚夫は28人もの人と沢山の荷物が乗れるかどうか案じたが、不思議にも納まってしまった。舟は水流に乗り、矢のごとく下った。そして、あっと言う間に下野と常陸の国境を過ぎ、下総国に入った。川が湾曲しているところへ来ると、小舟が動かなくなり、一同は宗任公の霊魂だろうと上陸した。田間の道に入ると、道が滑りて歩くことかなわず。奇怪にして恐らく察するに神慮、必ず此の奇事を随わせる。里人と語らいて、その日のうちに一棟の霊祠を造建し、滑田郷と名づけ、滑田明神(下妻市二本紀の香取神社)と号す。尚、一同は東に行く。しばらくすると侘人が持ちし宝器重く動かなくなり、松本氏が代わりに持つが、やはり動かず。それを見ていた旧臣の一人が「松本殿岡の如く動かず 」と言い、それより松岡郷と名づけ、滑田明神と同じに、近隣の民人と語らい、一社を造建し、松岡明神と号す。尚、東南方に3里行く。黒巣郷有り、一同は郷長に頼み宿泊した。するとその夜、秀則の夢の中に、宗任公の霊魂超勝絶妙の音韻を以て親しく告げる、「我、兼て吾が子に示す所の処は、即ち此れ是の境地なり。・一基の神祠を祝祭すべし。・郷名を改め、是れ自り後来、宗道郷と称すべき者なり。(黒巣の地名を、天の道、人の道を行くを宗とする意味で宗道と改めれば、人はすこやか、地は栄えるであろう。)・・次に、三分の中、鎧一具を以て東南の鯨郷に鎮祭し、鎧明神と号すべきなり。(黒巣郷からみて東南巽は風の暴ら神の住む方向であるから、その暴らき風神を鎮め樹木をまもるため)・・次に、東に大苑木郷あり、青龍逆角の一分の兜を鎮祭し、甲明神と号すべきなり。(青龍は雷神で雨を齎らす農業の神から、東方の大苑木の繁った郷に)・」。翌朝、郷長に話語らい、1社を造建して、宗道郷鎮守宗任大明神と尊称す。元永2年晩秋良辰吉日に、神職松本七郎秀則、長男八郎秀元親子、慎み敬いて、宗任大明神の因縁起来由を書き記す。その後、郷長黒須大学、娘を八郎秀元に嫁がせ、黒須家は、赤巣(赤須)郷に鹿島香取社と共に転宅する。それより地名若宮戸と呼ぶ。又、鯨郷大苑木郷に其々社を鎮め祀る。戦国の世は、小田城主氏治殿月参り、豊田城主四郎将基殿日参りの程共に尊崇篤く、社途中より下馬参向の礼をとり、今日「駒止め」の地名のこる。又、豊田氏よりは、当社に祭祀料として、滑田、松岡、田下、下栗、宗道、鯨、大苑木の地を奉納。(これが手向郷の根源と一説に伝う)他、豊田氏、当社の御分霊を豊田城外に祀る。(阿部神社)鎌倉時代より当社は、豊田33郷幸嶋12郷総社となる。(計45郷鎌倉時代の水帳(地検帳)当社に現存す)江戸時代、三代将軍家光公より代々、祭祀料朱印五石を賜る。又、日光東照宮完成のおり家光公より、本殿拝殿を奉納。(当里宗道河岸より日光へ資材等を送る)明治時代、廃社の厄を恐れ、祭神阿陪宗任命の仮名とし、天津彦々穂之瓊々杵命と号した。同13年、大火にて本殿拝殿を失う。同17年、本殿拝殿完成。昭和53年、「第一期モデル神社」指定。平成元年、宗任神社の森「茨城県の自然一〇〇選」に選ばれる
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