津島神社 
   つしまじんじゃ       
〒470-1213
愛知県豊田市桝塚西町北屋敷51
 
御由緒書
御由緒・御祭神   

御由緒
当社の創立は、人皇73代掘河天皇の御宇、寛治元年(1087)鴛鴨郷より、遷座奉斎し牛頭天王と奉称し、上野(上村、下村)馬場、粟寺、国江、永覚新郷、槌木新郷、会下新郷、上村新郷、下村新郷、馬場新郷、粟寺新郷、国江新郷の12ヶ村の総氏神にして、4300余坪の境内を有し、境内には七堂伽藍の社殿ありて、西三河の古大社で歴朝武門の崇敬浅からず、御手洗より社頭にいたる参道の馬場には、101の大鳥居が林立し、威容を誇る大社であったと伝えられていた。保延6庚申年(1140)御社建立、知行120石なりしが、天文年間(1532)兵火の災いをこうむり社殿、宝物、古文書など、ことごとく鳥有に帰し、その時、一つ焼け残りたり。(銘応永15年戌子年・1408)その後、徳川家光公より御朱印地12石、徳川綱吉公より御朱印12石、領主・岡崎城主水野監物忠喜公より黒印地5石5斗6升1合の寄進あり、明治維新後は、指定村社に列せられて昭和21年宗教法人として神社本庁に属し県神社庁より9級社に指定された。御神木天王の大杉をはじめ、境内には樹齢2・300年の老杉や老桧が繁茂し、昼間も暗かったこの地域も伊勢湾台風によって本殿の倒壊をはじめ、境内の樹木の全部倒伏の大被害を受けたので、昭和37年本殿、昭和44年拝殿をはじめ、境内の整備を終り今日に至った。拝殿の南には今も樹齢何百年も経た、くろがねもちの大樹は、豊田市の名木として往古の名残をとどめ、鳥居先には愛知県の木「はなの木」もある。

御由緒2
枡塚字北屋敷に鎮座する津島神社は寛治元年(1087)に鴛鴨の地より遷座され、藩政時代上野村11ヶ村(上村・下村・国江村・馬場村・粟寺村・永覚新郷・ 上村新郷・下村新郷・馬場新郷・粟寺新郷・国江新郷)の氏神として崇敬された。大永年間(1521〜1527)の地図に神域5町4面、馬場4町とあり。文明9年(1477)、 城主戸田宗光社祠の改築、応仁年間上野律師(義弁)の社殿修理寄進等多くの造営が行われて居る。
然るに有為転変なる哉天文15年(1546)に松平清定の兵燹によって社殿宝器等尽く鳥有に帰し当時社殿の正面に額げられし応永15年(1408)に鋳る鰐口一個と 現在残る石島居一基のみ当時の物なりと伝えて居る。
社殿灰燼の戦記に「天文4年(1535)松平清康兵を尾張に出すや、桜井の松平信定、其の虚に乗じ上野城に拠って叛く、同7年信定歿し其の子清定上野城を嗣ぎ、 同14年酒井将監と共に亦た上野城に拠って叛く岡崎の松平広忠之を攻め来る。城兵宗党よく防ぎ、却って広忠惨 敗して帰岡す。次いで翌15年9月広忠、 精兵を数千を以って再び清定を攻む城兵よく交戦すれども、衆寡敵せず、遂に城陥ち、清定・将監等出で降る。此の戦燹に因って周辺の山林及び天王神域焼失し、 神域の老杉数本を残し 焼野ヶ原となれり」と記さ ている。
後年永禄6年(1563)の三河一向宗乱は此戦いに於ける宗党の反揆に起因する所多しと言う。
岡崎城主本多豊後守広孝、戦禍によって社祠の焼失を聞き慶長6年(1601)旧本殿の造営寄進され、次いで領主水野監物忠善、 慶安元年(1648)7月17日御朱印地12石を御下賜されたのである。
明和4年本多中務大輔忠粛、からかさ組三ッ堂人母屋の現在の拝殿再建さるるに至り往時の森厳を備うるに至った。それより明治3年現在の本殿改築を初め大正2年玉垣の建設、 大正9年手水屋の増築等住時の偉容を整ふるに至れり。 往時より上野村牛頭大王祭は碧海三大祭りの一つとして血を見なければ収まらむと言う人出祭りで知られて居る。
御神木樹令1000年、廻り20尺と言う老杉は文化2年(1805)と明治初年と2回にわたって落雷のため其の中央部焼失し空洞されしも鬱蒼として日を蔽い茂っていたものである。
『上郷風土記』(上郷地区コミュニティ会議 上郷風土記編集委員会、昭和63年3月)より

御祭神
《主》素戔嗚尊



現地調査報告   



現地調査日 平成 年 月 日
平成 年 月 日作成 皇學館大学神道学科

公式HP  
  
  
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